不運を知ってこそ一人前
不運に見舞われた際、嘆く必要はない。
・・・いや、嘆きたいのであれば、思い切り嘆くが良いさ。
泣け。
重要なのはそこから先。
不運の経験を如何に活かすか、なのだ。
当たり前の話だが、生まれ落ちた瞬間から完成品としてできあがった人間などいない。
躓きながら、その都度、自分の経験を上書きしていくことで、
初めて見えてくる世界もある。
不運を知らない人間は、決して最強などではない。
少なくとも、僕にとっては非常にアンバランスな、
こう言っちゃあなんだが、いつ崩れてもおかしくない危険人物にしか見えない。
それに、そういう経験のない人間特有の軽薄さというものも、
個人的には見るに耐えない。
人生、もとい生き様とは、影を背負うことで脂が乗り、
それが経験という咀嚼によって、「生きた矜持」へと変化するのだ。
光があれば、そこには必ず、影の世界が存在する。
それと同じで、日の当たる世界や言葉には、
必ず、影打ちとなる立場や物事の考え方というものも存在する。
例えば、昨今の家族や男女関係では、
母子家庭支援、父親の子育てへの参加等の議論が盛んだ。
しかしその反面、支援活動の商業化による過度な干渉や押し付けや、
実績作りのための事件化への推進等、表沙汰になりにくい陰の実態もある。
それなのに、法の理屈やDV、モラハラ、イクメン等の「造語」に踊らされて、
キレイな世界の中だけで話をされても、ちっとも当事者の心になんか刺さらないだろう。
そういう、己の矜持や言葉も持たずに、
他人の作った理屈や言葉をそのまま「意見」として言ってしまう者はバカなのだ。
どんなに立派な立場か、肩書きかなんて関係ない。
バカは、バカだよ。
物事は両面を見て、知って、初めて本当の答えに近づくことができる。
不運とは、その「目」を養う為の磨き砂だと言っていい。
良い経験をしたな、などとは言わない。
僕自身、地獄の苦しみは嫌というほど知っている。
しなくて済むのであれば、もう二度と経験したくない。
しかし、地獄の釜の底には、
堕ちた人間にしか拾ってこられない「なにか」が必ず存在する。
それを未来への切符とするか、堕ちた言い訳としてしまうか。
全ては、己の手腕次第ということだよ。
不運に対抗する必要なんて、ない。
不運をも吸収し、血肉にできてこそ一人前なのだ。
なお、地獄なんてものは人に落とされる類のものではなく、
自らの意思で沈んでいく「奈落」のようなものだということも付け加えておく。
これは些か、蛇足かもしれないが、ね。
どう捉えるかは、各人に任せる。
2024.02.06 wrote